英語とプログラミングは、AIで「要らなく」なるのか
「AIが翻訳してくれるなら、英語はもう要らないのでは」「コードはAIが書くなら、プログラミング教育は無駄では」。この2つは、教育とAIの話で最もよく出る問いだと思う。どちらも半分正しく、半分間違っている——というのが、Pythonを10年書き、いまはAIにコードの大半を書かせている人間の答えだ。
プログラミングで起きたこと
先に私の本業の側から書く。AIは実際、コードを書く。私の仕事の風景で言えば、タイピングの量は激減した。では10年かけた蓄積が無価値になったかというと、逆のことが起きた。
AIに仕事を任せるには、何を作るべきかを構造化して伝え、返ってきたものが正しいか判定する必要がある。このとき頭の中で動いているのは、変数だのループだのの記法ではなく、データがどう流れ、状態がどこにあり、何が失敗しうるかという構造の理解だ。記法は忘れてもAIが補う。構造の理解がないと、そもそも指示が書けない。
だから子どものプログラミング教育も、評価軸が変わる。「コードが書ける」を目指すなら、たしかに価値は下がっていく。「動く仕組みを分解して考えられる」を目指すなら、価値は上がっている。教室選びで見るべきは、タイピングを教えているか、考え方を教えているかだ。
英語で起きること
英語も同じ分解ができる。翻訳という作業は、もうAIの方が速くて正確な場面が多い。旅行の会話や定型のメールのための英語学習は、投資対効果が下がり続けるだろう。
ただし、英語には作業に還元できない層がある。ひとつは一次情報への距離。AIの最新情報も、技術文書も、世界の議論も、まず英語で流れる。翻訳を介するとどうしても一拍遅れ、ニュアンスが均される。読める人は原文と翻訳の両方を持てるが、読めない人は翻訳が正しいか検証できない——生成は簡単、信用が難しいで書いた構図そのままだ。
もうひとつは、対面の関係構築。通訳アプリ越しの雑談と、拙くても直接交わす雑談では、築ける信頼の速度が違う。ここはAIの進化でどこまで変わるか、正直まだ見立てを保留している。
「要らない」ではなく「目的が変わる」
結論はこうだ。英語もプログラミングも、作業スキルとしては価値が下がり、構造理解と検証能力の土台としては価値が上がる。「要る/要らない」の二択で考えると判断を誤る。何のために学ばせるのかの目的関数を、AI前提で書き直す——習い事の選択で親がやるべきなのは、たぶんそれだ。