学歴の意味は25歳でわかる。中学受験は12歳で終わる
「学生のとき、もっと勉強しておけばよかった」——社会人になって数年経った人の口から、この言葉はよく出てくる。配属が分かれ、取引先の名刺の重みの違いを知り、同期との差がつき始める頃だ。学歴というものが社会の中でどう効いているのかを、人はそこで初めて体感として理解する。
知識としてなら、高校生でも知っている。「学歴は大事らしい」と。だが知っていることと、腹に落ちていることは違う。腹に落ちるには、社会の中で自分がどう値付けされるかを何年か経験する必要がある。
実感が来るのは、いつか
学歴の効き方を本人が体感するのは、早くて就職活動、確実なのは入社後数年だ。25歳前後としよう。
一方で、学歴を「準備」できる時期はいつまでか。大学受験なら18歳。高校受験なら15歳。そして日本の受験の最も早い分岐である中学受験は、12歳で終わる。しかも実質的な決定はもっと早い。通塾の判断は小学3〜4年生、9歳か10歳の時点で下される。
25歳で実感したことを、10歳の時点の判断に反映させることは、本人には絶対にできない。時間は一方向にしか流れない。これがこの社会が抱えている、静かで巨大な構造のずれだ。
決めているのは、子どもではない
もうひとつ直視すべきことがある。中学受験を「する」「しない」を決めているのは、子ども本人ではない。9歳の子どもに、偏差値と大学進学実績と20年後の労働市場を比較検討する能力はない。決めているのは親だ。
つまり中学受験とは、受益者と意思決定者が別人の投資である。リターンを受け取るのは子ども、それも15年後の子どもなのに、判断を下すのは現在の親。金融の世界なら受託者責任が問われる構図だが、家庭では「教育方針」という言葉で日常に溶けている。
ここで「本人の意思を尊重する」という美しい言葉が出てくる。だが判断材料を持たない小学生への「尊重」は、しばしば判断の放棄と区別がつかない。子どもは目の前の楽しさで答える。それは子どもとして完全に正常で、だからこそ、その答えに20年スパンの決定を委ねるのは大人の仕事の放棄になる。
25歳に説いても、手遅れ
私にも子どもがいる。この構造に気づいてから、自分の役割の定義が変わった。
25歳になった本人に「あのとき勉強は大事だったんだよ」と説くことを想像してほしい。完全に手遅れだ。本人が一番わかっている。逆に、いま9歳の子どもに20年後の労働市場を説明しても伝わらない。伝わらないのが正常だ。
だとすれば、大人にできることは2つしかない。子どもがまだ実感できない価値について、代わりに判断すること。そして、その判断の根拠を——感覚や世間の空気ではなく、現場で起きている事実とデータで——できる限り確かめること。
前者をやるかどうかは各家庭の選択だ。ただ後者について言えば、判断材料は明らかに不足している。教育情報は感情論とポジショントークの宝庫で、採用の現場で実際に何が起きているかは、なかなか家庭まで届かない。このサイトを書いている理由が、それだ。
なお、この話は「全員が中学受験をすべきだ」という主張ではない。受験しないという判断も、判断材料を持った上でなされるなら立派な意思決定だ。問題は、判断の時点で材料が届いていないこと。届けるのは、先に社会を見てしまった大人の仕事だと思う。